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勝山地区公園四王司山勝山青山〜勝山地区公園

 
勝山三山 縦走

 2017年1月28日
 
今年最初の山行きは、北九州市から関門海峡を渡って下関市にやってきた。目指すは勝山三山。下関市民の憩いの場、勝山地区公園(勝山御殿跡)から取り付くことになる。勝山三山とは、勝山公園を取り囲む「四王司山〜勝山〜青山」の低山である。しかしながら、そのアップダウンは結構厳しい。稜線上からは周防灘、関門北九州、響灘(六連島)などグルッと景色が見渡せる。

   

四王司山 展望台   ここから長府市街・周防灘が一望できる

<コース概要>

1、勝山地区公園(御殿跡)  8時40分 〜 2、四王司山登山口 〜 3、四王司山山頂 〜
4、四王山展望台  5、勝山への分岐(権現山への分岐のすぐ横) 〜 6、岩山展望台 〜
7、勝山登山口 〜 8、ひとやすみ展望台 〜 9、勝山山頂 〜 10、ふるさと展望台 〜 
11、勝山山頂(昼食) 〜 12、天狗の岩屋 〜 13、勝山展望台 〜 14、響灘展望台 〜 
15、平畑山山頂 〜 16、御殿跡への分岐 〜 17、青山山頂 〜 18、御殿跡への分岐 〜
19、青山・勝山登山口 〜 20、勝山地区公園(勝山御殿跡)  14時20分

  

 

1、勝山地区公園(御殿跡) 8時40分
今日は絶好の登山日和。駐車場からは勝山が見えている。さあ頑張って登ろう!

    総勢7人で出発

 

四王司山登山口へ  8時41分
駐車場の正面は勝山地区公園(勝山御殿跡)となっている。最初の目標四王司山の登山口は、道路を横切り、向かって左側の「緑の広場」に通じる道から入って行く。車止めの横には勝山三山登山マップの看板があるので、三山縦走をイメージすることが出来る。低山ながらアップダウンを覚悟させられる。





 勝山三山(青山・勝山・四王司山)登山マップ

 

と、その前に・・・「勝山御殿跡」とは?

 






勝山御殿跡について
1863年(文久3年)風雲急を告げる幕末、関門海峡において外国船との間に戦いが起こる。
当時の長府藩主毛利元周は、海岸に近い串崎城(県立豊浦高校東側)が危険なため急きょこの地に城(勝山御殿)を起工する。
わずか7ヶ月で完成し、スピード築城の記録となっている。
今も残る石垣や石畳は、御座の門、大書院室、御寝所など60余りの部屋を持つ御殿があったことを忍ばせるに十分な威容を残している。
      (ふるさと勝山のあすをつくる会)

 砲撃の目標となる櫓(やぐら)などは設けず、平屋の殿舎が建てられ、二つの殿舎は渡り廊下でつながれていました。 

その後の勝山御殿<明治維新後>
明治を迎え、1869年(明治2年)6月、長府藩は版籍を奉還したうえで、豊浦藩に改称しました。これにより藩主は藩知事に任命され、同年10月3日豊浦藩の藩庁を勝山御殿としました。1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県により豊浦藩は廃され豊浦県となり、勝山御殿は県庁として利用されましたが、同年11月15日に山口県に統合され、その用も終えました。

発掘調査により、殿舎の基礎や施設の一部が見つかりました。加えて、勝山御殿の建物の一部は、市内の寺院などに移築されており、これらの建物の調査により、勝山御殿の建物の作りを把握することが出来ました。
                (説明看板より抜粋)


 歴史のお勉強はこの位にして、本題の登山日記に戻ります。


 

2、四王司山登山口  8時42分
先程の登山マップの看板から100m程で四王司山の登山口となる。

    左の森の中へ

 

檜(ヒノキ)の植林帯を抜ける 8時45分
登山道はとても綺麗に整備されている。

    快調

 

鳥居が見えてきた  8時51分
この登山道は四王司山にある、四王司神社への参拝道になっている。

     一礼して潜る

 

見上げると送電線の鉄塔  9時06分
しばらく森の中を歩いていると、前方が明るくなった。ここで下界を眺めながら小休止。

    皿倉山を遠望 


 遠く北九州方面を見ると、我が郷土の「皿倉山」が霞んで見えている。
ここから目指す四王司山までは680m。標識を確認して先へと進んだ。



 


 自然林の中、快適な登山道を進む。9時19分          シダの群生地を通り抜ける。9時24分 



 

鳥居を潜ると三角点  9時28分
登山道は鳥居前を通過して右手だが、三角点の表示に従い鳥居を潜る。

    寄り道


同行のT井さんによると、以前ここには御堂が建っていたとのことだった。

    392m
  荒れた広場の少し上に三角点を発見。

四王司山(392m)の歴史
清和天皇の貞観9年(867年)新羅調伏のため、地勢高く賊境を見渡すこの山に長門国司が四王院を建立し、朝廷から下された四天王像を祀ったと伝わる。
中世、この山で大内・厚東両氏の抗争がくり返された。正平13年(1358年)厚東が四王司山で大内弘世に敗れた。正平13年(1358年)防長を統一した大内弘世が厚東義武に代わって長州守護職に任じられた。
九州に逃れていた義武は、翌正平14年(1359年)四王司山に拠って再び挙兵したが、敗れ、九州に逃れた。
現在、山頂には四王司神社の祠に毘沙門天が祭られ、正月の「初寅まいり」は賑わう。山頂の東端にある展望台に立てば、瀬戸内の眺めが素晴らしい。(説明標識より)

 

登山道へ戻る  9時33分
三角点を確認したあと、登山道に戻って進んだ。右手に石積の祠だろうか、「厚東南殿」と表記されているが、墓石のようだ。

   厚東南殿? 


三角点のあった鳥居から少し歩くと神社が現れた。




四王司神社  9時35分  皆さん並んで安全登山の参拝



 

3、四王司山山頂  9時39分
神社前の山頂標識と共に
今回のメンバーはT師匠、下関在住のT井夫妻とその妹さんのS木さん、お友達のN村さん、大分の国東から参加のM崎さんと私の総勢7人であった。
山口弁が中心で、そこに大分弁、北九州弁が入り混じった会話の中、時間を忘れて登山道を歩いてきた。 

 

四王司神社由緒沿革
少し読んではみたが、どこの神社も由緒は難しく、読むのを諦めました。ご興味のある方は是非四王司山へお越しください()

    神社前の山頂碑

 

展望所へ向かう  9時43分
神社右横の古い手水鉢の横から先へと進む。手水鉢には、寛政?寛永?と刻まれている。

    歴史を感じる

 

権現山への分岐表示を通過  9時44分
山頂付近のトイレを左手に見ながら、展望所の表示に沿って歩いていると、途中に権現山への分岐があった。権現山はパスし通過した。

    次の機会に

 

4、四王司山展望台  9時46分
神社から緩やかな下りの登山道。3分程歩き森を抜けると、一気に視界が開けた。

    朝日が眩しい




逆光だ!しかも霞がかかり残念。  9時47分  眼下は長府市街、海は瀬戸内の周防灘。
この展望台は午後の方が光の具合がよく、景色がよく見えるのでは?



 

展望所で記念撮影  9時49分
この四王司山では、偶然にもT夫妻の地元の山友達にお会いし、記念撮影のシャッターを押して頂いた。

    八大龍王


この日の四王寺山は、お天気が良いせいか登山者も多く何度も挨拶を交わした。
市街地に近く、地元に愛されている山だとよく分る。皆さん楽しそうに歩いていた。

展望台で眺望を楽しんだ後、第二目標の山、「勝山」へ向かうことにした。
一旦、四王司神社から歩いてきた道を戻ることになる。

神社へ戻る途中、勝山へのルートは「権現山口→」の表示が目印となる。



5、勝山への分岐  9時59分

「火の用心」「権現山口→」の表示から神社側に5m程歩いた所に、右手へ入る細い道がある。 

勝山への分岐に表示がなかったので、是非ここに「勝山へ」という表示が欲しいと思った。

 



 

50メートル程歩くとまた分岐 10時01分 右へ
ここはT字路になっている。山頂三角点からの道とここで合流しているのだろうか?
進行方向は右へと下っていく。

    員光(かじみつ)方面へ

 

岩山展望台へ向かう  10時09分
下り坂を快適に歩いて行く途中に岩山展望台への分岐が現れた。行ってみることに。

   右へ






6、岩山展望台  10時12分  これから歩く勝山〜青山への稜線が確認出来た





あ〜低山とは言えアップダウンが厳しそうだ

 





岩山展望台から、以前歩いた「竜王山」や「鬼ヶ城」の山並みも確認出来た

 

 

稜線を進む  10時35分
寄り道した岩山展望台から稜線に戻り、勝山へ向かって快調に下って行く。

   勝山まで750m

 

7、勝山登山口  10時38分
丁度この辺が鞍部になるのだろうか?と思ったらこの先の登山口の標柱から森の中に・・・。

    急登覚悟


鉄塔の下を歩くと、勝山登山口が現れた。登山口から勝山頂上までのコースタイムは40分。


 

8、ひとやすみ展望台 10時46分
ロープ場の連続が終わり、「ふーっ」と溜息をついた場所かひとやすみ展望台だった。

    一休み 





緩やかなアップダウンを繰り返し歩いていると「勝山城・急坂」の表示が目に入った  10時58分


 

急登に喘ぐ  11時03分
かなりの急登だ!一歩一歩、足場を固めて上って行く。下を見ると転げ落ちそうで怖い。

    滑落注意!

 

9、勝山山頂  11時10分  362m
急登を無事に踏破し、山頂で皆さん安堵の笑顔。さっそく記念撮影をしようと山頂標識を探すが見当たらない。仕方ないので、勝山の説明看板の前でハイポーズ!
この後、お腹が減ったので展望台へ行って「景色でも見ながら昼食休憩にしよう」とすぐ近くの展望台に向かった。

 

10、ふるさと展望台  11時17分
ここはなかなか良い場所だ。景色も抜群で言うことなし。暫く眺望を楽しんだ。

    いい感じ


 
これから進む「平畑山」と「青山」の稜線

 
竜王山と鬼ヶ城の稜線(後ろの山並み)

ここで昼食タイムにしようと思っていたが、日当たりの良いベンチのある場所は既に先客が・・・。
残念だが諦めて山頂へ戻ることになった。


 

11、勝山山頂(昼食)  11時22分
再度山頂に戻って昼食タイム。やっと腰を下ろせてホッとする瞬間だ。
ここで、雑学の帝王T師匠(左端)の歴史講座の始まり始まり。地元の方も知らない歴史の秘話を分り易く解説してくれた。
さすが、山の情報誌「のぼろ」の専属ライターだ。よく勉強されています。


山頂には勝山の歴史を紹介する説明看板がある。ちょっと読んでみよう!



勝山(362m)の歴史

勝山村(明治31年)の地名の由来となった山。頂上周辺は絶壁で要害の地。付近に山城の遺構である郭(くるわ)や櫓(やぐら)跡がある。大永元年(1521年)から大内家の重臣、内藤興盛が九州に対する構えとして在城した。弘治3年(1557年)3月、毛利元就に追われた大内義長が山口を棄て、内藤隆世とともに籠城した。毛利軍は攻略に手間取ったため、矢文を放ち降伏を促した。投降の勧告を受けた隆世は、主君義長の助命を請うため、一身に責を負い自刃した。義長は直ちに下城し長府の長福寺(功山寺)に入ったが、毛利軍に責められ自刃した。大内氏最期の山城。落城後、毛利元就が入江箸親を錠版として置いた。

平成15年3月  勝山三山を守る会

この山城を最後に、大内氏が滅亡したと書いてある。これも戦乱の世の習いなのだろう。

 

 




遠い昔の歴史話とは言え、説明文を読んで、
なんとなく切ない気分で勝山を後にした。



昼食休憩を終え、この先の平畑山と青山を目指す!  11時57分




 今度は急坂をどんどん下って行く  12時02分  積もる落ち葉で滑りそうになる



 

12、天狗の岩屋  12時06分
ここはロッククライミングの練習場になっているようだ。大岩の下には大きな穴がある。

   掘ったのか?

 

13、かつやま展望台  12時20分
この稜線は展望台が多い。尾根からの景色は疲れを忘れさせてくれる。

    正面に「勝山」

 

四王司山と満珠  12時29分
今度は四王司山が正面に見える。その四王司山の横には満珠島が見えるはずだが、霞んで確認することが出来なかった。

満珠(まんじゅ)・干珠(かんじゅ)の名は1300年以上前に書かれた日本書紀にも見られるとのこと。源平壇ノ浦合戦の際に源氏がこの島の周辺に兵を集結させたとも言われている。

  鎧(よろ)石原・古戦場  12時32分
落ち武者の幽霊が出てきそうな気がする。ここでテント泊はまっぴら御免である。

     どんな戦い?
  14、響灘展望台  12時36分
響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)が見える。

    霞む響灘
  15、平畑山山頂 12時40分  246m
登山道に突然ハンモックが現れた!と思ったら、そこは平畑山の山頂だった。

   山頂らしくない




平畑山山頂でも記念撮影  12時43分  皆さん余裕の笑顔


 
平畑山を通過し「青山」へ向かう  12時44分

16、御殿跡への分岐  12時52分
8分程下ると、御殿跡への分岐にさしかる。ここは平畑山と青山の鞍部になるところだ。
青山に登頂後、またこの分岐に戻ってくる。

   通過して青山へ





 分岐を過ぎるとまたまた急登が待っていた  12時57分  頑張るぞー




 

車道に飛び出した  12時59分
黙々と上ること7分、青山の頂上に続く車道に飛び出した。短くてよかった。ホッとした。

    青山頂上迄630m 


これからは車道を歩いて、青山の山頂を目指すことになる。


 

車道歩き  13時02分
青山の車道を反時計回りに歩き上って行く。
車道に何かコロコロと転がっている。

    小さな松ぼっくり 


車道を歩きながら右手の景色を見ると、採石場が目に入った。




山が削られていく様子が分かる  13時05分  自然破壊を見るのは悲しい

 

 

17、青山山頂  13時17分  288m
「やったー。」勝山三山を踏破したぞー。
これで目標達成です。お疲れ様でした。
山頂にはNTTの勝山無線中継所が陣取っている。建物があるので本当の山頂へは辿り着けないが、この柵の前を山頂としよう!
気候も良くポカポカなので、ここで暫く休憩、記念撮影などして過ごした。



NTT勝山無線中継所の前で  13時28分



 


青山の説明標識の前で  13時32分

青山(288m)の歴史
形が富士山に似ているため「長門富士」の別名がある。古名は「形山」。頂上付近には、郭、石垣、竪堀などの遺構が残っている。「防長古城史」によると、青山城主高森正倫(まさとも)と勝山城主内藤興盛が不和となり、勝山青山合戦が起こった。大永7年(1527年)10月、青山勢には、津原善勝、津田興輝が加勢し12000の軍勢で勝山城を取り巻いたが、勝山勢は大内氏の援軍を得て、35000の軍勢で逆襲に転じ、青山の城を四方から攻め一刻にしてこれを落とした。青山勢は残らず討死し、その遺骸は里人により丁重に葬られたという。勝山地区の各所に残る中世墓は、この合戦のものと伝えられており、人々は「青山くずれ」と読んで今も大切に供養している。

(勝山三山を守る会)

 

車道から登山道へ  13時46分
さあ下山しよう!青山山頂から車道を戻り、往路の登山道へ入る。

     急坂慎重に

 

18、御殿跡への分岐  13時52分
往路で通過した御殿跡への分岐を、今度は右に下って行く。

     右へ下る

 

緩やかな下り  13時55分
T井さんご夫妻の先導で皆さんペースよく、軽快に下って行く。

    シダの群生

 

鉄塔横を通過  14時00分
ここまで来れば一安心。でももう少し歩きたい気分でもある。

    T師匠快調

 

19、青山・勝山登山口  14時09分
森を抜け、民家の間を歩き車道に辿り着く。広い通りに出て左に進むと勝山御殿跡だ。

    安堵する

  表示に従い四王司山頂方面へ 14時10分
あとはトボトボ歩くだけ。歩いていると、左手に青山、平原山、正面に勝山が見えてくる。

    通行車両注意!

 
青山


平原山〜勝山の稜線
 

20、勝山地区公園(勝山御殿跡) 14時20分
無事に駐車場に戻って来た。初めて歩いた勝山三山だったが、とても有意義な山歩きとなった。
中世から幕末まで歴史の色濃い要所の山々に少し魅了されたかもしれない。
お天気に恵まれ、景色も堪能でき満足の一日だった。皆さんお世話になりました。

5時間40分の山歩き。スマホの歩数計は17068歩だった。



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